4、徳川家光の時代

西暦 年号/年 主な出来事
1623 元和 9 7月 徳川家光が三代目将軍となる。
結局、伏見城は廃城となる。
10月 幕府は西国大名に大坂城の石垣修築を命じる。
特に城門の巨石を運び込まれる ~寛永6年迄。
1624 (寛永初年) 島之内、南船場、西船場の造成が完了。
江戸~大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる
(寛永文化) 建築=日光東照宮、初期桂離宮、二条城、知恩院、等が完成。
絵画=狩野派の東照宮、名古屋城、二条城の襖絵が有名。
1625 寛永 2 夏の陣で埋められた長堀川を再掘削し、本格的に開通。末吉橋の袂に屋敷を持っていた、平野郷の豪商「末吉孫左衛門」も鰻谷の窪地を利用して長堀川の掘削に参加、朱印船を通し大活躍。低地部は土盛をし「船場」「島之内」とし、建築敷地を作った。
1626 3 安井久兵衛は、道頓堀川の沿岸川八町の開発を進め、宗衛門町の遊所南地五花衛、と上方歌舞伎の芝居興行が許され、道頓堀の繁栄のもとを作る。
1629 6 徳川の大坂城が再築され、天守閣が完成する。
太閤贔屓の大坂人は、巨大石の石垣を見ても、太閤様の偉大さが更に光り輝くものでした。
新町を造成。
内伏見町・阿波座・北天満・神崎・江口等の散在の遊女を集め、大坂唯一の公許の新町遊郭が完成。(現、西区新町一丁目付近=瓢箪町・佐渡島
町・越後町・新堀町・新京橋町を「五曲輪(くるわ)」といった。以後300年繁栄)。


新町おいらん道中
 

1630 7 東横堀川の東の瓦屋町で寺島宗右衛門により、瓦焼きが有名。
「寺島屋旧記」には徳川家から北接の空堀窪地46,000坪を拝領。大坂城、都の禁裏、諸社寺、江戸御用として高津瓦を回送する。
1632 9 1月 2代目秀忠が死去。
1634 11 3代将軍徳川家光が大坂を視察。
民活により新生「大坂」に改造されたお礼として、11,000石にのぼる地子(固定資産税)の永久免除と関所税を撤廃、楽市楽座の自由営業を認めて統制しないとする優遇政策を施行し、太閤贔屓の緩和政策とした。それは、大坂を『天下の台所』つまり経済の中心地にする為の政策でした。
1635 12 6月 参勤交代制を定める。大坂城の運河が完成し、水運による物資交易が活発化。鰻谷に住友銅吹所が完成。西横堀の南北炭屋町にも銅吹所が集り、大坂は全国最大の銅工場地となる。
1636 13 6月 寛永通宝による統一通貨経済になり、大坂では「商工士農」の新序列制度を作った。大坂には三大卸市場「雑喉場ざこば魚市、天満青物市、堂島米市」があり、全国の米取引市場の堂島、諸藩の蔵屋敷並ぶ中之島一帯は、米の相場が決められた事から「天下の台所」と呼ばれました。
1639 16 7月 鎖国状態に入る。
1645 正保 2 5月 宮本武蔵(62歳)死す。
1651 慶安 4 8月 徳川家綱が4代目将軍となる。
1655 明暦 水帳の制定により、心斎橋の近くには「安堂寺町1~5丁目・塩町1~4丁目・長堀心斎町・長堀十丁目・長堀治郎兵衛町・長堀茂左衛門町・横堀伏見町・南新町・木挽町南之丁・木挽町中之丁・南木挽町北之丁・菊屋町・鰻谷1~3・7丁目・大宝寺町・南笠屋町・道仁町」等の町名が誕生しています。
1657 3 新町の遊廓には、当初は西入口しかなく、船場の人達が遊びに行くのが不便だと、東の大門を開く。
1661
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1704

寛文・延宝

元禄
  家光の大坂優遇政策は、船場で花開く。(戦乱のない平和な約30~50年間)
各藩は、物の生産に力を入れ、大坂の各藩の蔵屋敷に回漕・荷受・売買に携わる商人、金銀相場に携わる証券屋・両替屋は、北浜や今橋の北船場に集中。高麗橋の高級呉服屋、伏見町の唐物、道修町の薬屋、安土町・本町・久太郎町の繊維関係、小間物屋の久宝寺町、安堂寺町の金物等、船場には同業者が集中し南北御堂の屋根が見える所で商いしたいが、商人の理想でした。
「始末・才覚・算用」という折り目正しい商人の原則があり、船場ことばが常用社交語とし、日常生活はつつましく質素・堅実で優雅。
老舗と暖簾を大切に、一家一業に徹し信用を失う事は何よりの恥とした事は、下船場・島之内の商人家の皆様も同様でした。
瀬戸内の水運「樽廻船」、裏日本からの北廻船も就航し、多くの商品が大坂に運ばれる。
1664 寛文 4 安治川開通。
1665 寛文 5 大坂城天守閣に落雷し焼失。 昭和6年
市民の募金で天守閣、再建。