3、徳川家康の時代<江戸時代初期>

西暦 年号/年 主な出来事
1602 慶長 7 6月 「伏見城」は、家康により復旧工事が始まる。
1603 8 家康(61歳)が征夷大将軍となり、2月江戸幕府が伏見で開かれる。
7月 秀忠の子、千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ。
1605 10 4月 秀忠(27歳)が2代目征夷大将軍に任命。 「伏見城」が再興される。
1606 11 9月 江戸城本丸殿が完成し秀忠入城。
1611 16 3月 秀頼(19歳=身長約190cm)が家康の招きで二条城にて会見。
1612 17 安井治兵衛(成安道頓=河内久宝寺の郷士で築城に功労があり、城南に土地を賜り、生涯秀吉の心酔者)が、梅津川を利用して、東横堀川と木津川を結ぶ「南堀川(道頓堀川)」の開削に着工し7割は出来上がっていた。
1614 19 11月 (11/15)大坂冬の陣。徳川軍は城の南、茶臼山(現一心寺)に本陣。不落の名城として有名な大坂城は、東と北には急流な川があり攻撃は出来ない。西から攻めると坂と沢を昇る事になり難しい。南には寺町があり、墓石が邪魔して前に進みにくい。しかも、城の周囲には、開削された堀が回らされ攻めあぐね、堀の一つ一つ埋め戻し、ついに、三の丸、二の丸も埋めて12/20休戦に持ちこんだのです。
1615 20 4月 大坂夏の陣。成安道頓が戦死。5/8 大坂城 落城。
物資の集散と経済の中心地の大坂は、幕府の資金源であり、畿内以西を監視する軍事上においても全国最重要地。家康と将軍秀忠は、夏の陣にて戦功第一の亀山城主で家康の娘、亀姫の子「松平忠明」(伊勢亀山5万石の領主で亀山城を改修した優秀な都市開発家)を翌日より大坂城の城主に任命。
忠明の任は、太閤贔屓の大坂を一新する大改革であった。
まず、盗賊が横行する無法状況の治安を回復、離散町人を呼び戻す事から着手。当初は戦いで半壊の家を修繕した藁葺き家で、畑を耕す暮しだったが、河川の改修や新田開発による新都市計画と、戦火で荒れ果てた市街の復興と再編に、伏見の町人を招き、工事が始まると、雇用も増大し、大坂の町は復興の波に乗る。
中断していた秀吉の改革原案を基に、東船場、島之内の街路を80mの碁盤目に整備し、散在する寺院を、小橋村・天満村・高津村に整理、墓地も数カ所に統合する

5月 (5/6)秀頼、淀君が自害、5/26秀頼の子国松(8歳)処刑され、豊臣家滅亡。
1615 元和 新城主は、中断の道頓堀川(南堀川)は、安井九兵衛(成安道ト=道頓の従兄弟)は久宝寺(八尾)の農民を動員して再掘、東西横堀川を結び、更に西流の木津川に合流(約3km)11月に竣工する。
新城の敷地内は、旧本丸と旧二の丸とし、「三の丸(1.5㎡)を開放して、新市街地」を開く。しかし、余りの広大な土地の為、人手が不足。そこで、忠明は、四散の町民を呼び戻し、再度伏見から23余の町民を町ぐるみ集団移住させ、上町や天満に寺や墓地を集め「寺町」を、又、玉造、船場(伏見町・呉服町、京町堀、長堀川沿い)にも移住させ、船場の発展に大活躍させたのです。
この頃に、勘四郎町(現、南船場3丁目=御堂筋の佐野屋筋西・安堂寺町付近)に大坂芝居の発祥の小屋や水茶屋が数軒あり、贔屓役者を目当てに船場の「旦はん」や「御寮はん」、「いとはん」や「こいさん」達でとても賑やかでした。(勘四郎町は、平野郷の有力町人「末吉勘四郎」に由来)
3月家康、太政大臣となる。
1616 2 大坂を10ヶ町に分割。三津寺村の低湿地帯は、道頓堀川の開削土砂を島之内東部、下難波、西高津村に土盛し「島之内」「難波」「高津」を造成。その為、三津寺村は消滅する。焦土になっていた大坂城下町の西のはずれは、芦の葉が茂る沼沢地(現,西区新町一丁目付近)。そこに遊郭の設立を申請したのは木村又次郎。その本人に、開拓が命じられる。
4/17 家康(75歳)が駿府城で没す。久能山に葬られる。
1617 3 伏見の一部の町人は京町堀、江戸堀に再移住して「京町堀川、江戸堀川」を完成し、下船場が発展する。
1619 5 功績を残した忠明は、わずか4年間で、大坂の町の戦災復興と市街地改造をほぼ完了して、幕府の直轄地とし、大和郡山城主に転出する。(その後の城主は置かず)
(1)大坂は、大名ににらみを利かす「幕府権力の象徴」と「経済首都」の二面性を持った町となる。
(2)江戸期の町は、都市の基礎単位で、自治権を持った共同体。従って、伏見からの大移動は、単に人口が増えただけではなく、町人自治を可能にしたのです。
(3)幕府は、城代や東西町奉行を置く一方、大幅な自治権を大坂に与えたのです。
(4)初代城代は、伏見城代を廃止して内藤信正が着任。伏見町人は大坂への移住を命じられる。
(5)その後の「大坂城代」は5~6万石の譜代大名が順次選定。
(6)市中の行政司法を司る「大坂町奉行」を置き、与力(30騎)・同心(50人)・定番・大番・加番をもって、城内警備に当る。

「大坂三郷」の誕生
船場・下船場と称した地域名を解消し現、本町筋を境に「北組」「南組」に分割。旧三の丸を「伏見組」(17世紀中頃に「北組」「南組」に編入)
とし、大川以北に「天満組」が生れ、急速に市中が拡張。
各郷の代表者「惣年寄(お堀の開発や川口の砂州を開拓等の功労者)」は町奉行との接点として民生を推進しました。
9月 将軍秀忠来城。城の再建の基本方針は、太閤に勝る幕府の強大力を見せつける「池の深さ、石垣の高さ」を誇る様にと指示がある。
西横堀川が完成。島之内、南船場、西船場の開発が始まる。
長堀川は、伏見町人の三栖清兵衛・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・岡田新三(美濃屋心斎)ら4名で開削が始まる。

「八百八橋」(お堀の開発により、多数の橋が架けられる)
公儀橋(公費で架橋)=鴫野橋・京橋・野田橋・備前島橋・天満橋・天神橋・難波橋・高麗橋・本町橋・農人橋・長堀橋・日本橋
がある。
町橋(有力町人が架橋)=淀屋橋・心斎橋が代表格。

「惣会所」
お上のお達しを「惣年寄」が町年寄に伝え、「町年寄」は各町の町会所に持ち帰り町民に伝えた。
江戸~大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる。

1620 6 3月 家光は、大坂城の再築を始める。
秀吉の大坂城の旧城を西国北国の諸大名を動員し、徹底的に破壊。土盛をして石垣も埋め、その上に新設計の徳川の大坂城を修築が始まる。
1622 8 長堀川(伏見川とも呼ぶ)が完成。長堀の両側は、農地から市街地に転換され、長堀心斎町、長堀清兵衛町、長堀治郎兵衛町、長堀平右衛門町という開発町人名の町が出来る。
浪華長塹心斎橋記よると「心斎橋」は、岡田心斎(長堀心斎町在住=京都伏見生・1575年(天正3)~1634年(寛永11)9月5日・58歳没)
によって架橋。当時の木橋は、長さ18間(約35m)幅2間半(約4m)だった。


木橋の復元模型