しんきた 心斎橋筋北商店街
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心斎橋今昔 ・・・しんきたの歴史年表をご案内いたします。
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★大坂の町改造計画(もくじ)
     
  1. 織田信長の時代
  2. 豊臣秀吉の時代
  3. 徳川家康の時代
  4. 徳川家光の時代
  5. 心斎橋筋北商店街の発足(江戸時代初期〜後期)
  6. 心斎橋筋商店街の発足(江戸時代後期)
◆1、 織田信長の時代
西暦 年号/年 主な出来事
1497
明応
6
蓮如上人が大坂石山坊を創建。この蓮如が書いた御文章に「大坂」の地名が始めて登場し、江戸時代を通じ大坂が使われました。明治時代から「大阪」となります。
1534
天文
3
織田信長、尾張で出生。
1537
6
秀吉、尾張の中村で出生。
1542
11
徳川家康、岡崎で出生。
1543
12
種子島伝来。
1551
20
この頃、秀吉は今川義元の家臣、松下之綱に仕える。
1554
23
この頃、秀吉は織田信長に仕え、木下藤吉郎と名乗る。
1560
永禄
3
信長、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1565
8
信長、美濃の坪内氏に朱印状を発給。秀吉が初文書の副状を発行。
1566
9
秀吉、美濃に進み、墨俣の築砦に著功をたつ。
1568
11
9/26信長、足利義昭を擁して入京。
1569
12
秀吉、京都奉行の任に着く。
1570
元亀
6月  信長・家康軍、浅井長政を近江姉川で破る。
9月  本願寺へ挙兵、石山の合戦が始まる。
1572
3
秀吉、小谷攻めに参戦。
1573
天正

4月 武田信玄没す。
7/18  信長、将軍義昭を追放し、室町幕府滅亡。
8月  信長、朝倉・浅井を滅ぼす。
9月  信長、長島一揆を攻撃。秀吉、浅井氏攻略の功により所領12万石を与えられ、小谷城主となる。 この頃より、羽柴筑前守秀吉と名乗る。翌年には長浜築城となる。

1575
3
8月 信長、越前の一向一揆を制圧し、門徒を皆殺しにする。
1576
4
7月 毛利氏、本願寺に食糧を補給する。
1577
5
10月 秀吉「毛利攻め」の総司令官に任命。大軍を率いて西下、姫路城に入る。播磨、備前、美作、但馬、因幡の5国を平定。
1580
8
閏3月 本願寺は、石山の合戦で信長に屈し講和成立。
11月  柴田勝家、加賀一揆を鎮圧する。

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◆2、
豊臣秀吉の時代
西暦 年号/年 主な出来事
1582
天正
10
6/2 本能寺の変にて信長・信忠死す。備中高松城攻めの秀吉は、毛利軍と和睦。
6/13  秀吉は、山崎の合戦で明智光秀を破る。
1583
11
4月 賤ヶ岳の合戦にて柴田勝家を破る。
9月  「大坂の町・第一期改造計画」 秀吉は、三年前迄この地にあった石山本願寺を攻め喘ぎ、その堅城地ぶりから、新城を築くのが最適地と考えていた。
9月1日〜大坂城の築城 第一期工事=本丸と天守を開始。
8月末から、30余国の諸大名から月5万人を動員し、石の切出しと運搬開始。
1584
12
2月 第二期工事=二の丸、第三期工事=忽構堀を着工。そして、城下町の検地に着手する。
3月 小牧・長久手の戦い、織田信雄・徳川家康と11月和合す。
4月 本丸の工事完了。
1585
13

1月 毛利輝元・上杉景勝が、秀吉の臣従となる。
7/11  関白となる。
9/9  豊臣姓を賜る。紀州、四国、北陸を平定。
大坂城の天守閣が完成(本丸の北東隅の天守は8層、最上階に回廊付展望台、屋根は金箔張、各階に金・銀・生糸・緞子(ドンス)・茶器・刀・武道具部屋有り)。まず、城下町開発として東横堀川を開削。
戦国時代からの城郭建築は、壕をめぐらし石垣を用いて高い土塁の上に天守閣を築く形式の集大成が「大坂城(黒色)」で、史上最高規模の豪壮華麗さを誇りました。

1586
14
2月 大坂築城の石運びの掟を決める。
10月 家康が巨従となる。
12月19日  太政大臣となる。
1587
15
5月 九州平定。
6月 キリスト教禁教令発布。
10月 京都の北野神社で、秀吉主催の大茶会を開催。
1588
16
7月 刀狩令を発布。
1589
17
5月 淀殿、鶴松を生む。朝鮮と国交始める。
1590
18

3〜7月 「小田原攻め」にて北条氏滅亡。
8月  東北地方を平定し、全国統一。

1591
19
66ヶ国人掃い令を出す。
8/5  鶴松病死。
12/27  関白を秀次に譲り「太閤」を名乗る。
1592
文禄
第一次朝鮮侵略(文禄の役)。大政所病死。貿易船制度を制定。大名や商人が勝手な貿易をする海賊を取締り、貿易船と区別する証明書を発行する。
徳川家康は、この政策を継承、朱印状を発行し「朱印船」と証しました。
秀吉は、「伏見城」の築城を開始
1593
2
6月 明と講和交渉に入る。 8/3 淀君、秀頼を誕生。
3月 秀吉は、伏見城に移住。
1594
3

3月 秀吉は伏見城に移住。
大坂城の外周惣構が完成 (延長308町=約13q)
北は大川(旧淀川) 東は猫間川(平野川) 西は東横堀川を開削、南は空堀を開削し外周を形成。 (現、大阪城敷地の3倍) 
この大工事は、遠近諸国から無類の石材や木材が舟で次々と運ばれ、段取りが悪いと、所領没収の厳罰が下されるので大名は必死で、付近の水上には、遠路から何日もかけ運んだ1000艘の運搬船がひしめき合い、巨石を川に落としてしまう事もありました。  

1595
4
伏見大地震により伏見城が崩壊、再普請を開始。
7月 秀次を高野山に追放し自殺。諸大名に血判起請文を提出させる。
1597
慶長
2
「伏見城」が完成。 第二次朝鮮侵略(慶長の役)。
1598
3
「第二期改造計画・大坂町の中屋敷替」(〜翌年3月)
大坂城の三の丸造成工事と、大規模な城下町の改造を行う。
「大坂の城下町」
上町台(生玉・玉造・渡辺等)には、武家屋敷(龍造寺町・安国寺坂・順慶町等)が並び、青物市場(京橋南詰)や魚市場(京橋北詰)が賑わう。
「船場の城下町」
三の丸の西に広がる難波潟の芦原を造成。そこは、古代からの難波宮や飛鳥に訪れる三韓「高句麗=高麗橋・新羅・百済=久太良(くだら)町」の使節が上陸する着船場の地点で、土佐堀・東堀・西堀・長堀に囲まれた「船場の城下町」を形成する。
この船場には、碁盤目の街区「東西に約4間(7.2m)の通り、南北に約3間(5.4m)の筋」を配し、大阪城へ向う直線道路が整然としていた。そこに堺、伏見、平野、阿波、土佐、近江、北陸から材木商や大工、医者、薬種商等の商人や職人を移住。惣構内の上町からは、町家や寺院の移転が命じられ、家屋は檜の木造二階建てに統一され、「太閤下水」も完備していた。
「下船場(現、西区)の城下町」
西横堀川以西には、阿波座、土佐座が出来、各地の特産品が販売。
「他の城下町」
紀州に移転の本願寺の宗主を呼び「天満」に移住させる。
津村に「北御堂」を、難波村には「南御堂」を建設。
3月  醍醐の花見を催す。
8/18  秀吉伏見城で病死(61歳)。朝鮮出兵の諸将を召還させる。
1599
4
天満の堀川を開削。天満に町家を、船場、島之内の砂州を開拓。
天満、船場を城下に組入れる。
1600
5
8月 西軍は、関ケ原の前哨戦により、家康の留守役の鳥居元忠が預る「伏見城」を炎上させ落城。
9月 関ケ原の合戦。
西横堀川は、長瀬七郎右衛門によって開削、また、阿波堀川を掘下げ、下船場(西区の船場)を造成する。

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◆3、
徳川家康の時代<江戸時代初期>
西暦 年号/年 主な出来事
1602
慶長
7
6月 「伏見城」は、家康により復旧工事が始まる。
1603

8

家康(61歳)が征夷大将軍となり、2月江戸幕府が伏見で開かれる。
7月 秀忠の子、千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ。
1605
10
4月 秀忠(27歳)が2代目征夷大将軍に任命。 「伏見城」が再興される。
1606
11
9月 江戸城本丸殿が完成し秀忠入城。
1611
16
3月 秀頼(19歳=身長約190cm)が家康の招きで二条城にて会見。
1612
17
安井治兵衛(成安道頓=河内久宝寺の郷士で築城に功労があり、城南に土地を賜り、生涯秀吉の心酔者)が、梅津川を利用して、東横堀川と木津川を結ぶ「南堀川(道頓堀川)」の開削に着工し7割は出来上がっていた。
1614
19
11月  (11/15)大坂冬の陣。徳川軍は城の南、茶臼山(現一心寺)に本陣。不落の名城として有名な大坂城は、東と北には急流な川があり攻撃は出来ない。西から攻めると坂と沢を昇る事になり難しい。南には寺町があり、墓石が邪魔して前に進みにくい。しかも、城の周囲には、開削された堀が回らされ攻めあぐね、堀の一つ一つ埋め戻し、ついに、三の丸、二の丸も埋めて12/20休戦に持ちこんだのです。
1615
20
4月 大坂夏の陣。成安道頓が戦死。5/8 大坂城 落城。
物資の集散と経済の中心地の大坂は、幕府の資金源であり、畿内以西を監視する軍事上においても全国最重要地。家康と将軍秀忠は、夏の陣にて戦功第一の亀山城主で家康の娘、亀姫の子「松平忠明」(伊勢亀山5万石の領主で亀山城を改修した優秀な都市開発家)を翌日より大坂城の城主に任命。
忠明の任は、太閤贔屓の大坂を一新する大改革であった。
まず、盗賊が横行する無法状況の治安を回復、離散町人を呼び戻す事から着手。当初は戦いで半壊の家を修繕した藁葺き家で、畑を耕す暮しだったが、河川の改修や新田開発による新都市計画と、戦火で荒れ果てた市街の復興と再編に、伏見の町人を招き、工事が始まると、雇用も増大し、大坂の町は復興の波に乗る。
中断していた秀吉の改革原案を基に、東船場、島之内の街路を80mの碁盤目に整備し、散在する寺院を、小橋村・天満村・高津村に整理、墓地も数カ所に統合する 。
5月 (5/6)秀頼、淀君が自害、5/26秀頼の子国松(8歳)処刑され、豊臣家滅亡。
1615
元和
新城主は、中断の道頓堀川(南堀川)は、安井九兵衛(成安道ト=道頓の従兄弟)は久宝寺(八尾)の農民を動員して再掘、東西横堀川を結び、更に西流の木津川に合流(約3km)11月に竣工する。
新城の敷地内は、旧本丸と旧二の丸とし、「三の丸(1.5u)を開放して、新市街地」を開く。しかし、余りの広大な土地の為、人手が不足。そこで、忠明は、四散の町民を呼び戻し、再度伏見から23余の町民を町ぐるみ集団移住させ、上町や天満に寺や墓地を集め「寺町」を、又、玉造、船場(伏見町・呉服町、京町堀、長堀川沿い)にも移住させ、船場の発展に大活躍させたのです。
この頃に、勘四郎町(現、南船場3丁目=御堂筋の佐野屋筋西・安堂寺町付近)に大坂芝居の発祥の小屋や水茶屋が数軒あり、贔屓役者を目当てに船場の「旦はん」や「御寮はん」、「いとはん」や「こいさん」達でとても賑やかでした。(勘四郎町は、平野郷の有力町人「末吉勘四郎」に由来)
3月 家康、太政大臣となる。
1616
2
大坂を10ヶ町に分割。三津寺村の低湿地帯は、道頓堀川の開削土砂を島之内東部、下難波、西高津村に土盛し「島之内」「難波」「高津」を造成。その為、三津寺村は消滅する。焦土になっていた大坂城下町の西のはずれは、芦の葉が茂る沼沢地(現,西区新町一丁目付近)。そこに遊郭の設立を申請したのは木村又次郎。その本人に、開拓が命じられる。
4/17 家康(75歳)が駿府城で没す。久能山に葬られる。
1617
3
伏見の一部の町人は京町堀、江戸堀に再移住して「京町堀川、江戸堀川」を完成し、下船場が発展する。
1619
5

功績を残した忠明は、わずか4年間で、大坂の町の戦災復興と市街地改造をほぼ完了して、幕府の直轄地とし、大和郡山城主に転出する。(その後の城主は置かず)
(1)大坂は、大名ににらみを利かす「幕府権力の象徴」と「経済首都」の二面性を持った町となる。
(2)江戸期の町は、都市の基礎単位で、自治権を持った共同体。従って、伏見からの大移動は、単に人口が増えただけではなく、町人自治を可能にしたのです。
(3)幕府は、城代や東西町奉行を置く一方、大幅な自治権を大坂に与えたのです。
(4)初代城代は、伏見城代を廃止して内藤信正が着任。伏見町人は大坂への移住を命じられる。
(5)その後の「大坂城代」は5〜6万石の譜代大名が順次選定。
(6)市中の行政司法を司る「大坂町奉行」を置き、与力(30騎)・同心(50人)・定番・大番・加番 をもって、城内警備に当る。

「大坂三郷」の誕生
船場・下船場 と称した地域名を解消し現、本町筋を境に「北組」「南組」に分割。旧三の丸を「伏見組」(17世紀中頃に「北組」「南組」に編入) とし、大川以北に「天満組」が生れ、急速に市中が拡張。
各郷の代表者「惣年寄(お堀の開発や川口の砂州を開拓等の功労者)」は町奉行との接点として民生を推進しました。
9月 将軍 秀忠 来城。城の再建の基本方針は、太閤に勝る幕府の強大力を見せつける「池の深さ、石垣の高さ」を誇る様にと指示がある。
西横堀川が完成。島之内、南船場、西船場の開発が始まる。
長堀川は、伏見町人の三栖清兵衛・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・岡田新三(美濃屋心斎)ら4名で開削が始まる。

「八百八橋」(お堀の開発により、多数の橋が架けられる)
公儀橋(公費で架橋)=鴫野橋・京橋・野田橋・備前島橋・天満橋・天神橋・難波橋・高麗橋・本町橋・農人橋・長堀橋・日本橋 がある。
町橋(有力町人が架橋)=淀屋橋・心斎橋 が代表格。

「惣会所」
お上のお達しを「惣年寄」が町年寄に伝え、「町年寄」は各町の町会所に持ち帰り町民に伝えた。
江戸〜大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる。

1620
6
3月  家光は、大坂城の再築を始める。
秀吉の大坂城の旧城を西国北国の諸大名を動員し、徹底的に破壊。土盛をして石垣も埋め、その上に新設計の徳川の大坂城を修築が始まる。
1622
8
長堀川(伏見川とも呼ぶ)が完成。長堀の両側は、農地から市街地に転換され、長堀心斎町、長堀清兵衛町、長堀治郎兵衛町、長堀平右衛門町という開発町人名の町が出来る。
浪華長塹心斎橋記よると「心斎橋」は、岡田心斎 (長堀心斎町在住=京都伏見生・1575年(天正3)〜1634年(寛永11)9月5日・58歳没) によって架橋。当時の木橋は、長さ18間(約35m) 幅2間半(約4m)だった 。


木橋の復元模型

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◆4、
徳川家光の時代
西暦 年号/年 主な出来事
1623
元和
9
7月 徳川家光が三代目将軍となる。
結局、伏見城は廃城となる。
10月 幕府は西国大名に大坂城の石垣修築を命じる。
特に城門の巨石を運び込まれる 〜寛永6年迄。
1624
(寛永初年)
島之内、南船場、西船場の造成が完了。
江戸〜大坂間に菱垣廻船が就航し、多くの商品が大坂に運ばれる
(寛永文化)
建築=日光東照宮、初期桂離宮、二条城、知恩院、等が完成。
絵画=狩野派の東照宮、名古屋城、二条城の襖絵が有名。
1625
寛永
2
夏の陣で埋められた長堀川を再掘削し、本格的に開通。末吉橋の袂に屋敷を持っていた、平野郷の豪商「末吉孫左衛門」も鰻谷の窪地を利用して長堀川の掘削に参加、朱印船を通し大活躍。低地部は土盛をし「船場」「島之内」とし、建築敷地を作った。
1626
3
安井久兵衛は、道頓堀川の沿岸川八町の開発を進め、宗衛門町の遊所南地五花衛、と上方歌舞伎の芝居興行が許され、道頓堀の繁栄のもとを作る。
1629
6
徳川の大坂城が再築され、天守閣が完成する。
太閤贔屓の大坂人は、巨大石の石垣を見ても、太閤様の偉大さが更に光り輝くものでした。
新町を造成。
内伏見町・阿波座・北天満・神崎・江口等の散在の遊女を集め、大坂唯一の公許の新町遊郭が完成。(現、西区新町一丁目付近=瓢箪町・佐渡島 町・越後町・新堀町・新京橋町を「五曲輪(くるわ)」といった。以後300年繁栄) 。


新町おいらん道中
 
1630
7
東横堀川の東の瓦屋町で寺島宗右衛門により、瓦焼きが有名。
「寺島屋旧記」には徳川家から北接の空堀窪地46,000坪を拝領。大坂城、都の禁裏、諸社寺、江戸御用として高津瓦を回送する。
1632
9
1月 2代目秀忠が死去。
1634
11
3代将軍 徳川家光 が大坂を視察。
民活により新生「大坂」に改造されたお礼として、11,000石にのぼる地子(固定資産税)の永久免除と関所税を撤廃、楽市楽座の自由営業を認めて統制しないとする優遇政策を施行し、太閤贔屓の緩和政策とした。それは、大坂を『天下の台所』つまり経済の中心地にする為の政策でした。
1635
12
6月 参勤交代制を定める。大坂城の運河が完成し、水運による物資交易が活発化。鰻谷に住友銅吹所が完成。西横堀の南北炭屋町にも銅吹所が集り、大坂は全国最大の銅工場地となる。
1636
13
6月 寛永通宝による統一通貨経済になり、大坂では「商工士農」の新序列制度を作った。大坂には三大卸市場「雑喉場ざこば魚市、天満青物市、堂島米市」があり、全国の米取引市場の堂島、諸藩の蔵屋敷並ぶ中之島一帯は、米の相場が決められた事から「天下の台所」と呼ばれました。
1639
16
7月 鎖国状態に入る。
1645
正保
2
5月 宮本武蔵(62歳)死す。
1651
慶安
4
8月 徳川家綱が4代目将軍となる。
1655
明暦
水帳の制定により、心斎橋の近くには「安堂寺町1〜5丁目・塩町1〜4丁目・長堀心斎町・長堀十丁目・長堀治郎兵衛町・長堀茂左衛門町・横堀伏見町・南新町・木挽町南之丁・木挽町中之丁・南木挽町北之丁・菊屋町・鰻谷1〜3・7丁目・大宝寺町・南笠屋町・道仁町」等の町名が誕生しています。
1657
3
新町の遊廓には、当初は西入口しかなく、船場の人達が遊びに行くのが不便だと、東の大門を開く。
1661
 |
1704

寛文・延宝

元禄

 
家光の大坂優遇政策は、船場で花開く。(戦乱のない平和な約30〜50年間) 各藩は、物の生産に力を入れ、大坂の各藩の蔵屋敷に回漕・荷受・売買に携わる商人、金銀相場に携わる証券屋・両替屋は、北浜や今橋の北船場に集中。高麗橋の高級呉服屋、伏見町の唐物、道修町の薬屋、安土町・本町・久太郎町の繊維関係、小間物屋の久宝寺町、安堂寺町の金物等、船場には同業者が集中し南北御堂の屋根が見える所で商いしたいが、商人の理想でした。
「始末・才覚・算用」という折り目正しい商人の原則があり、船場ことばが常用社交語とし、日常生活はつつましく質素・堅実で優雅。
老舗と暖簾を大切に、一家一業に徹し信用を失う事は何よりの恥とした事は、下船場・島之内の商人家の皆様も同様でした。
瀬戸内の水運「樽廻船」、裏日本からの北廻船も就航し、多くの商品が大坂に運ばれる。
1664
寛文
4
安治川開通。
1665
寛文
5
大坂城天守閣に落雷し焼失。 昭和6年 市民の募金で天守閣、再建。

「江戸時代の心斎橋商店街」

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◆5、
心斎橋筋北商店街の発足(江戸時代初期〜後期)
西暦 年号/年 主な出来事
1672
寛文
12
新町橋(瓢箪橋)が架けられ、順慶町通りが急に賑わい始めました。
京の島原遊廓で有名な夕霧が新町に移住。(夕霧は、江戸の高尾、京の芳野と並び称す名妓)で連日、見物人が詰め掛け大賑わい。


順慶町から新町橋風景
『摂津名所図大成』
順慶町通りには年中夜店が並び「西に至れバ、新町の花街なれバ、夜更けまでも賑はしく、しばしも往来の間、断えなく」とその形相は、橋の上まで夜店が並び大賑わいでした。(順慶町通は、秀吉の頃の武将、筒井順慶に由来する)


順慶町の井戸の辻
   
新町橋〜堺筋の順慶町通りに、いつ頃か年中夜店が並び始め、人々が集まり始めます。
1676
延宝
4
幕府から夜間営業が許可されると、順慶町通りを右左折し心斎橋筋へ、北は博労町の道半ば、南は安堂寺町迄を行き交う様になり、その後、心斎橋北詰→心斎橋→道頓堀の芝居興行への道筋が繁盛し始めました。「心斎橋筋北商店街が発足」(元禄時代の15年前)
( 井原西鶴「俳諧手鑑」発刊 )
『浪速の賑ひ』
この夜店については、「黄昏の頃より往来の左右に店を出し、種種の品を飾り、おもひおもひの標の行灯を照らす事万灯の如く」とある。
『摂津名所図大成』
「呉服・木綿屋、家具調度、嚢物(ふくろもの)あり、楊枝屋あり、婦女子の髪の飾具、或ハ世帯の荒道具、神棚宮屋のとなりにハ仏具屋あり、陶器、金物、打物、箕笠合羽、傘屋、下駄草履、煮物焼売の魚、鮓店、野菜、菓子、饅頭、餅、煎餅、板行店(浮世絵印刷店)、いふとも尽きぬ」と全ての物が良く揃っていて、これが、なにわの小売「商の原点」と理解されます。
1678
延宝
6
『芦分舟』付録に「しゅんさい橋筋ハ、南ハゑびすばし、北は、よどや橋一丁上」とあり、本来は御堂筋の一筋東の、南は道頓堀から心斎橋を経て土佐堀川に至る街路の名前で、戎橋〜土佐堀通の突き当たる迄の2.5Kmの道名という事になります。
1679
7
『難波雀』(当時の情報ハンドブック)には、「船場心斎橋筋に香具屋、鋳物師、(たんす)金や、蒔絵、べに屋、古酒道ぐや、わん家具、三味線琴屋」の八軒の店が並び、心斎橋や戎橋には「出駕籠の居所」があり、人通りの多い所であった事を表しています。
大坂三郷、南・北・天満の人口は、28万7891人。
1680
8
7月 徳川綱吉が5代目将軍となる。
1682
天和
2
井原西鶴「好色一代男」発刊。
1684
4
竹本義太夫(34歳)が道頓堀に竹本座を創設。
1686
貞享
3
紀伊国屋文左衛門、紀州→江戸へ蜜柑を送る。
1687
4
1月 生類憐れみの令を出す。
5月 江戸の豪商、河村瑞賢(70歳)が頻繁に洪水する淀川の治水工事で安治川(長さ約2900m.幅90m=20日間)を完成。
『大坂町絵図』には土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「志んさいはし筋」とあります。
1688
元禄
12月 柳沢吉保(30才)が側用人となる。
(元禄文化〜1703)
幕藩体制が安定、大坂の商人達が力を持ち、町人文化が生まれ、
俳諧、浮世絵、人形浄瑠璃、歌舞伎、等が江戸へも繁栄する。
新町遊廓は、井原西鶴の「好色一代男」に、揚屋での太夫との遊興等が生き生きと描写されている。 他に、松尾芭蕉 菱川師宣 俵屋宗達 近松門左衛門 等が有名。
<江戸時代中期>
1691
元禄
4
大坂の富商住友が、別子銅山の採掘を始める。
1697
10
関東大地震。江戸の大火。
1698
11
堀江川を開削。
1700
13
「大坂 北組・南組・天満組 水帳町数家数数寄町」には、船場には138の町があった。
1702
15
12月 赤穂浪士仇討
1705
宝永
2
立売堀を開削。
1717
享保
2
大岡忠相が町奉行となる。(後の名奉行)
11月 松屋(現、大丸)心斎橋筋に進出。 
1734
14
高津入堀 開削。
1759
宝暦
9
『摂州大坂画図』には、土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「心サイハシスヂ」とあります。
<江戸時代後期>
1782
天明
2
6月 大坂市中の橋上を地車を引いての通行を禁止される。
1787
7
5月 大坂にも「百姓一揆」や「打ちこわし」が起る。(江戸時代に3000件)
(後期の浮世絵師)
鈴木晴信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、安堂広重(1797〜1858)、葛飾北斎、
(後期の文化)
滝沢馬琴、十返舎一九、小林一茶、与謝野蕪村、良寛、
(後期の学者)
平賀源内、緒方洪庵、シーボルト、高野長英、伊能忠敬、間宮林蔵。
1798
寛政
10
「摂津名所図会」の 「順慶町の夜市」には四季を問わず「夕暮れより万灯照らし、種々の品飾りて」と多くの店が、新町〜堺筋まで、両側尺地もなく大規模な市が立っていて、当時のメインストリートの様子が良く解ります。


順慶町夜見世之図

長堀十丁目(現、佐野屋橋南詰)の「石屋浜」


長堀の石浜

石職人は石大工の親方で、石問屋(建築の棟梁)と切石屋(彫刻の親方)がある。巨大石は網をつけ、鳥居・山海の名石(摂津の御影石・播磨の立山石・泉州の和泉石・京都の白川石・紀伊の大崎石・近江の木戸石 等、諸国の名産を集め、駒大灯篭・手水鉢・石臼・仏像・石碑・道標・石橋・風炉等が売られた。
「長堀の材木浜」
長堀・堀江・道頓堀川の川岸に材木市場がありました。大阪近辺や土佐の国、日向の国等から運ばれる材は、一肩物(五寸角で長さ14尺)を基準に上荷船・茶船に積まれ、大きい物は筏に組まれ送られてきました。
沖中仕が丸筏を岸に近づけ、浜中仕は鳶口を引掛け陸揚げ、人夫が競売の商人が積み上がった材木を、問屋の立売人の競り市で落札。すると、問屋の手代が厚い帳面に値段を記入していました。一番目は土佐藩の「御材木」が慣例で、材木問屋に、木材一切の公用を勤める町奉行がいました。


長堀の材木浜
 
1805
文化
2
二宮尊徳の農村再興活動が始まる。
1811
8
上難波神社の境内で人形浄瑠璃の興行が始まる。〜天保14年(1843) 
1821
文政
4
7月 伊能忠敬の弟子達は初の「大日本全図」を幕府に献上。(忠敬は文政元年没)
1822
5
7月 「天下の台所に陰り」西国地方から江戸への菜種油の直送を禁止し、旧来の大坂油問屋からの正規油送に復活させる。
1823
6
7月 ドイツ人シーボルトがオランダ商館の医師として、長崎出島に着任。
1825
8
2月 英国船が浦賀に入港。5月 文政の打払い令で、英船の交易を禁ず。
1826
9
大坂隋一の繁華街であった心斎橋筋は浪花の名所となり、大坂町人は勿論、諸外国の旅行者も買物を楽しんでいます。オランダ商館長に随伴して江戸に向かう途中、大坂を訪れたシーボルトは、偶然、端午の節句(5月5日)に出会い「町々も住民もすっかり祭の装いで、商店や小売店では商品や製品を見える様にうまく並べてある」その道を通り「心斎橋を渡って」います。
1828
11
8月 シーボルト事件。 長崎奉行がドイツへの帰国荷に日本地図等の禁制品を発見、国外退去処分となる。
1830
天保
3月  伊勢お蔭参り大流行。
7月  京都大地震。
1832
3
3月 町奉行が安治川を川更井して、その土砂で天保山を完成。
1837
8

2月 大塩平八郎の乱。大坂東町奉行の平八郎は、金持家や商家を襲い、大飢饉を救おうと一揆を起こしたが失敗し自殺。

1838
9

緒方洪庵(29歳)が、医業、蘭学敵々斎塾を設立。

1844
  〜48
弘化〜
嘉永元年
順慶町通から南下した心斎橋筋には、夜店が広がり始めます。
1847

48
弘化4〜
嘉永元年
相継ぐ外国船(蘭英米仏)各地に来航。
1851
嘉永
4
12月 『浪華の賑ひ』の書に「近頃夜市はじまり」とあります。
1853
6
6月  米使、ペリー浦賀に来航。
12月 露軍艦、長崎に来航。
1854
7
1月 ペリー浦賀に再来。3月 日米和親条約により鎖国終焉。
7月 幕府が日の丸の幟を日本惣船印と定める。 

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◆6、
心斎橋筋商店街の発足(江戸時代後期)
西暦 年号/年 主な出来事
1855
安政
2
『摂津名所図会大成』に「今は心斎橋筋(北詰)より南へつづきて島の内(心斎橋南詰)及び道頓堀戎橋まで夜店ありて、年々に賑はひを増せり」とあり、特に本屋と昆布屋が多いと記されています。
福沢諭吉、緒方洪庵の蘭学塾に入門。
1856
3
上難波神社の境内で人形浄瑠璃の興行が再登場。
1858
5
井伊直弼が大老に就任。
新町遊郭の「五曲輪(くるわ)」一円に桜を植え、毎年春に夜桜見物の遊客で賑わった。


新町廊中九軒夜桜
 
(幕末の志士)
吉田松陰、橋本左内、高杉晋作、勝海舟、坂本竜馬、近藤勇、中岡慎太郎、桂小五郎、西郷隆盛、山内豊重、大村益次郎等
1860
万延
1月  勝海舟が咸臨丸で太平洋横断し渡米。
2月  桜田門外の変、井伊大老が暗殺。
1863
文久
3
3月 新撰組 結成。 7月 薩英戦争。
1864
元治
6月 池田屋事件=京都の志士が新撰組に襲われる。
7月 京都、蛤御門の変=長州藩が幕府軍(会津+薩摩軍)に敗北。
8月 米英仏蘭の連合艦隊が下関砲撃。
1866
慶応
2
1月  薩長同盟。
12月  徳川慶喜が15代目将軍となる。
1867
3
1月  英国外交官アーネスト・サトウ(幕末〜明治維新に在日)は「心斎橋筋へ散歩に出かけた。ここは大阪随一の盛り場。黒山の様に沢山の人々が異国人の姿を是非一度見ようと、すぐ後からゾロゾロついてきた。こちらもこれに劣らぬ穿鑿心(せんさくしん)を働かせ、暗くなるまで本屋や呉服屋など一軒一軒ひやかしながら町を歩いた」とあります。
3月  将軍慶喜が、大坂城で英仏蘭の代表に兵庫の開港を約束。
9月  薩長が、討幕挙兵の盟約を結ぶ。
10月  大政奉還=徳川慶喜が朝廷に政権を還す。
12月  王政復古を宣言し、新政府が成立。
1868
明治
1月 薩長兵と旧幕府軍で鳥羽伏見の戦い。
2月 慶喜が、江戸城を出て上野寛永寺に謹慎、4月に水戸へ退去。
3月 五箇条の御誓文。 7月 江戸→東京と改称。
8月 明治天皇即位。 10月 江戸城が皇居と定められる。
地租改正当時の大坂の一等地は、新町橋通りの井戸の辻(渡辺筋)から心斎橋筋へ曲がる(順慶町)辺りとある。
1869
2
5/4 大阪を東西南北の「四大組」に区分けされる。
   北大組=大川筋・土佐堀川以北・安治川南北町
   南大組=長堀川以北 (明3/9、順慶町以南を南大組に編入)
   東大組=西横堀川以東
   西大組=西横堀川以西
1871
4
1月 東京・京都・大阪間に郵便開始。
2月 造幣寮開業、英国から輸入の造幣機で統一貨幣鋳造。
5月 新貸条例で金本位制が採用され、円銭厘単位制となる。
10月 府県官制を定め、府県知事を設置。11月 3府72県。
1872
5
1月  初の全国戸籍調査、男1679.6万 女1631.4万 計3311.1万人。
3月  大阪に町名変更があり、新な 心斎橋筋 が誕生。
長堀通から南詰の各町(錺屋町、木挽北之町、木挽中之町、木挽南の町、菊屋町)が合併して、新な町名の心斎橋筋と従来の通り 名の心斎橋筋と2つの心斎橋筋が出来てしまったのです。
大阪府は、上難波神社の文楽座を松島に移し、人形浄瑠璃と歌舞伎と共に興行される 。
9月  東京〜横浜間で国鉄開業。
1877
10
3月 大阪〜京都間で国鉄全通。
十合呉服店(現、そごう)心斎橋筋に進出。


 以上の資料から解る様に、心斎橋の小売商店街は、江戸時代 初期の1676年(延宝4年)に我々の北詰商店街が生れ、179年後の江戸時代 後期の1855年(安政2年)になり長堀通から南詰の心斎橋筋に活気が生れたと、その歴史を見る事が出来ます。
 我々の商店街が「創業330周年」を迎えるに当り、延宝時代に切り開いてくれた先達に負けまいと、旧東区の「せんば心斎橋筋商店街様」に呼びかけ「延宝330年祭」を開催しました。
何と、当時の誓文払いの浮世絵図の横断幕と幟が、長堀通〜本町通まで約3300尺(1km)間に騒然と飾られ、330時間のビックリセールと33時間の大道芸を賑やかに展開しました。
このイベントは、平成元年に旧南区と旧東区が合区以来、手を携えて中央区の商店街として初の催事でもあり、テープカットをお願いした議員様や中央区長様は大喜びでした。
 大阪の繁栄と心斎橋の繁栄は切っても切れない関係にあり「中央区の心斎橋筋が、商いの原点を忘れず、切磋琢磨して商売繁栄」していかねばならないと思っております。
 今後共、ご贔屓賜りますよう、宜しくお願い申し上げます 。

以上。

<参考文献>
「わたしたちの町と学校」芦池小学校 「船場」宮本又次 著
「大阪の名所図会を読む」宗政五十緒 著 「日本名所風俗図会」森修 編
「心斎橋筋文化史」心斎橋筋商店街振興組合 「摂州大坂画図」宝暦九卯己
「心斎橋筋周辺の今昔」心斎橋筋北商店会 「大阪12月物語」渡辺忠治 著
「心斎橋北詰(上)駸々堂百年」駸々堂書店 「大阪まち物語」なにわ物語研究会
「写真で見る大阪市100年」大阪都市協会 「日本史年表」三省堂
「写真集なにわ今昔」毎日新聞社 「SENBAらぶこーる」NTT
「紀行鎖国を解く」日本経済新聞 「日本全史」講談社
「心斎橋よもやま話」心斎橋筋商店街振興組合  

 

 

 

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