| 西暦 |
年号/年 |
主な出来事 |
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1672
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寛文
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12
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新町橋(瓢箪橋)が架けられ、順慶町通りが急に賑わい始めました。
京の島原遊廓で有名な夕霧が新町に移住。(夕霧は、江戸の高尾、京の芳野と並び称す名妓)で連日、見物人が詰め掛け大賑わい。

順慶町から新町橋風景
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『摂津名所図大成』
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順慶町通りには年中夜店が並び「西に至れバ、新町の花街なれバ、夜更けまでも賑はしく、しばしも往来の間、断えなく」とその形相は、橋の上まで夜店が並び大賑わいでした。(順慶町通は、秀吉の頃の武将、筒井順慶に由来する)
順慶町の井戸の辻
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| 新町橋〜堺筋の順慶町通りに、いつ頃か年中夜店が並び始め、人々が集まり始めます。 |
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1676
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延宝
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4
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幕府から夜間営業が許可されると、順慶町通りを右左折し心斎橋筋へ、北は博労町の道半ば、南は安堂寺町迄を行き交う様になり、その後、心斎橋北詰→心斎橋→道頓堀の芝居興行への道筋が繁盛し始めました。「心斎橋筋北商店街が発足」(元禄時代の15年前)
( 井原西鶴「俳諧手鑑」発刊 ) |
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『浪速の賑ひ』
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この夜店については、「黄昏の頃より往来の左右に店を出し、種種の品を飾り、おもひおもひの標の行灯を照らす事万灯の如く」とある。 |
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『摂津名所図大成』
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「呉服・木綿屋、家具調度、嚢物(ふくろもの)あり、楊枝屋あり、婦女子の髪の飾具、或ハ世帯の荒道具、神棚宮屋のとなりにハ仏具屋あり、陶器、金物、打物、箕笠合羽、傘屋、下駄草履、煮物焼売の魚、鮓店、野菜、菓子、饅頭、餅、煎餅、板行店(浮世絵印刷店)、いふとも尽きぬ」と全ての物が良く揃っていて、これが、なにわの小売「商の原点」と理解されます。 |
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1678
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延宝
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6
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『芦分舟』付録に「しゅんさい橋筋ハ、南ハゑびすばし、北は、よどや橋一丁上」とあり、本来は御堂筋の一筋東の、南は道頓堀から心斎橋を経て土佐堀川に至る街路の名前で、戎橋〜土佐堀通の突き当たる迄の2.5Kmの道名という事になります。 |
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1679
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7
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『難波雀』(当時の情報ハンドブック)には、「船場心斎橋筋に香具屋、鋳物師、(たんす)金や、蒔絵、べに屋、古酒道ぐや、わん家具、三味線琴屋」の八軒の店が並び、心斎橋や戎橋には「出駕籠の居所」があり、人通りの多い所であった事を表しています。
大坂三郷、南・北・天満の人口は、28万7891人。 |
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1680
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8
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7月 徳川綱吉が5代目将軍となる。 |
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1682
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天和
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2
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井原西鶴「好色一代男」発刊。 |
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1684
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4
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竹本義太夫(34歳)が道頓堀に竹本座を創設。 |
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1686
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貞享
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3
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紀伊国屋文左衛門、紀州→江戸へ蜜柑を送る。 |
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1687
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4
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1月 生類憐れみの令を出す。
5月 江戸の豪商、河村瑞賢(70歳)が頻繁に洪水する淀川の治水工事で安治川(長さ約2900m.幅90m=20日間)を完成。
『大坂町絵図』には土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「志んさいはし筋」とあります。 |
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1688
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元禄
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元
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12月 柳沢吉保(30才)が側用人となる。 |
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(元禄文化〜1703)
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幕藩体制が安定、大坂の商人達が力を持ち、町人文化が生まれ、
俳諧、浮世絵、人形浄瑠璃、歌舞伎、等が江戸へも繁栄する。
新町遊廓は、井原西鶴の「好色一代男」に、揚屋での太夫との遊興等が生き生きと描写されている。 他に、松尾芭蕉 菱川師宣 俵屋宗達
近松門左衛門 等が有名。 |
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<江戸時代中期>
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1691
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元禄
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4
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大坂の富商住友が、別子銅山の採掘を始める。 |
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1697
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10
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関東大地震。江戸の大火。 |
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1698
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11
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堀江川を開削。 |
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1700
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13
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「大坂 北組・南組・天満組 水帳町数家数数寄町」には、船場には138の町があった。 |
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1702
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15
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12月 赤穂浪士仇討 |
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1705
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宝永
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2
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立売堀を開削。 |
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1717
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享保
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2
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大岡忠相が町奉行となる。(後の名奉行)
11月 松屋(現、大丸)心斎橋筋に進出。 |
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1734
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14
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高津入堀 開削。 |
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1759
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宝暦
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9
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『摂州大坂画図』には、土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「心サイハシスヂ」とあります。 |
| <江戸時代後期> |
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1782
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天明
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2
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6月 大坂市中の橋上を地車を引いての通行を禁止される。 |
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1787
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7
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5月 大坂にも「百姓一揆」や「打ちこわし」が起る。(江戸時代に3000件) |
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(後期の浮世絵師)
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鈴木晴信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、安堂広重(1797〜1858)、葛飾北斎、 |
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(後期の文化)
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滝沢馬琴、十返舎一九、小林一茶、与謝野蕪村、良寛、 |
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(後期の学者)
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平賀源内、緒方洪庵、シーボルト、高野長英、伊能忠敬、間宮林蔵。 |
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1798
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寛政
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10
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「摂津名所図会」の 「順慶町の夜市」には四季を問わず「夕暮れより万灯照らし、種々の品飾りて」と多くの店が、新町〜堺筋まで、両側尺地もなく大規模な市が立っていて、当時のメインストリートの様子が良く解ります。

順慶町夜見世之図
長堀十丁目(現、佐野屋橋南詰)の「石屋浜」

長堀の石浜
石職人は石大工の親方で、石問屋(建築の棟梁)と切石屋(彫刻の親方)がある。巨大石は網をつけ、鳥居・山海の名石(摂津の御影石・播磨の立山石・泉州の和泉石・京都の白川石・紀伊の大崎石・近江の木戸石
等、諸国の名産を集め、駒大灯篭・手水鉢・石臼・仏像・石碑・道標・石橋・風炉等が売られた。
「長堀の材木浜」
長堀・堀江・道頓堀川の川岸に材木市場がありました。大阪近辺や土佐の国、日向の国等から運ばれる材は、一肩物(五寸角で長さ14尺)を基準に上荷船・茶船に積まれ、大きい物は筏に組まれ送られてきました。
沖中仕が丸筏を岸に近づけ、浜中仕は鳶口を引掛け陸揚げ、人夫が競売の商人が積み上がった材木を、問屋の立売人の競り市で落札。すると、問屋の手代が厚い帳面に値段を記入していました。一番目は土佐藩の「御材木」が慣例で、材木問屋に、木材一切の公用を勤める町奉行がいました。

長堀の材木浜
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1805
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文化
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2
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二宮尊徳の農村再興活動が始まる。 |
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1811
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8
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上難波神社の境内で人形浄瑠璃の興行が始まる。〜天保14年(1843) |
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1821
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文政
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4
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7月 伊能忠敬の弟子達は初の「大日本全図」を幕府に献上。(忠敬は文政元年没) |
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1822
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5
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7月 「天下の台所に陰り」西国地方から江戸への菜種油の直送を禁止し、旧来の大坂油問屋からの正規油送に復活させる。 |
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1823
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6
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7月 ドイツ人シーボルトがオランダ商館の医師として、長崎出島に着任。 |
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1825
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8
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2月 英国船が浦賀に入港。5月
文政の打払い令で、英船の交易を禁ず。 |
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1826
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9
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大坂隋一の繁華街であった心斎橋筋は浪花の名所となり、大坂町人は勿論、諸外国の旅行者も買物を楽しんでいます。オランダ商館長に随伴して江戸に向かう途中、大坂を訪れたシーボルトは、偶然、端午の節句(5月5日)に出会い「町々も住民もすっかり祭の装いで、商店や小売店では商品や製品を見える様にうまく並べてある」その道を通り「心斎橋を渡って」います。 |
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1828
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11
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8月 シーボルト事件。 長崎奉行がドイツへの帰国荷に日本地図等の禁制品を発見、国外退去処分となる。 |
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1830
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天保
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元
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3月 伊勢お蔭参り大流行。
7月 京都大地震。 |
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1832
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3
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3月 町奉行が安治川を川更井して、その土砂で天保山を完成。 |
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1837
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8
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2月 大塩平八郎の乱。大坂東町奉行の平八郎は、金持家や商家を襲い、大飢饉を救おうと一揆を起こしたが失敗し自殺。
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1838
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9
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緒方洪庵(29歳)が、医業、蘭学敵々斎塾を設立。
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1844
〜48
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弘化〜
嘉永元年
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順慶町通から南下した心斎橋筋には、夜店が広がり始めます。 |
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1847
〜
48
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弘化4〜
嘉永元年
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相継ぐ外国船(蘭英米仏)各地に来航。 |
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1851
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嘉永
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4
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12月 『浪華の賑ひ』の書に「近頃夜市はじまり」とあります。 |
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1853
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6
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6月 米使、ペリー浦賀に来航。
12月 露軍艦、長崎に来航。 |
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1854
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7
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1月 ペリー浦賀に再来。3月 日米和親条約により鎖国終焉。
7月 幕府が日の丸の幟を日本惣船印と定める。 |