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★心斎橋今昔(もくじ) |
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●浪速の町づくり |
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- 6〜7000年前(図A)の浪速の地形は「上町台」が角の様に張出し、その東「河内の海」は生駒山麓まで迫っていました。
- 200年前(図B)になると、「上町台」は更に張出し、川の上流から運ばれた土砂が推積し、湿地帯が出現「河内の海」は狭まって来ました。
浪速の地形
- 「大阪湾」と「河内の海」に挟まれた海流の潮の流れは速く、特に干潮、満潮時にはとても流れが急で、波も荒かった。そこで「浪速」という呼び名が定着して来た様です。
- 浪速の町は、まず上町台地が開け、次に沖積活動による海岸線の張出しにより、新に高津、難波、島之内等が生れ。豊臣時代には大坂の町に南接する三津寺村と言われていました。
- 点在していた池や沼の低地部には土盛をし、船場、島之内に建築敷地を作っていったのです。
- 船場の地名は、1700年前、応神天皇(270〜310年)以来、中国・朝鮮との交通が盛んとなり、船場・島之内辺に着き「着船場
→ 船場」へと変化したのです。
- 仁徳天皇(313〜399年)が高津ノ宮にましました時「滄々たる海中に所々小嶼(島)の散在してゐたその其の一つが」やがて今日の船場になっていくのです。
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●大坂の町づくり |
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- 時代の末期、1497年(明応6年)蓮如上人が大坂石山坊を創建。この蓮如が書いた御文章に「大坂」の地名が始めて登場し、江戸時代を通じ大坂が使われています。
- この頃から、九州・中国の大名達が外国と貿易を行いました。
- 豊臣秀吉は過労死?と思われるくらい良く働きました。外交下手を露呈した朝鮮出兵の一方、内政では全国を駆け巡る傍ら、大坂城築城、兵農分離や検地等、中央集権体制作りに腐心して全国を統一し、大坂遷都構想まで温めていたのです。
- 1583年(天正11年)9月「大坂の町・第一期改造計画」
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- 大坂城の築城と城下町の検地に着手。40代半ばの働き盛りの秀吉は、史上類を見ない大都市を構想して、本丸、二の丸を中心に、城下町の北は大川、南は空堀通、東は猫間川(平野川)、西は東横堀川としたのです。
- ここに、大名や武家屋敷を造り、国元から町民を連れてこさせたのです。更に、平野や堺、伏見から町民を強制的に移し、人口20万人の城下町を建設したのです。
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- 1598年(慶長11年)「大坂の町・第二期改造計画」大坂城の普請と船場を大拡張。(〜翌年3月)
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- 死期を悟ったのか?秀頼の為に城と町を囲む惣構の中に、堅固な要塞の三の丸を建設。
- そこにあった町屋敷や寺社(推計15,000戸)を新市街地に船場を造成して移転させた。当時の船場は現在の船場よりやや小さく、北は伏見町、南は博労町辺り、東は東横堀川、西は北御堂と南御堂辺りと考えられます。
- 秀吉の存命中は、城内(内町)を大坂とし、城外の船場や天満は外町地域でした。
- 死後に、この三地域を大坂に一本化「大坂の船場」「大坂の天満」と言われ「大坂三郷」と呼ばれるようになりました。
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- 1615年(慶長20年)「夏の陣」
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- 焦土と化した大坂の復興を担ったのが、徳川家康の孫の松平忠明大坂城主です。
- 徳川進駐軍は豊臣の城の痕跡を完全に消す一方、城下町の建設に秀吉の計画を5年間引継ぎました。
- 当時、畿内を治める幕府の拠点は伏見にありました。大坂の戦略的な重要性は解っていたのですが、廃墟ではどうしようもなかったのです。元、亀山城主の忠明は、大坂の復興整備に伏見城下の23町もの全町民を大移動させ、ついに伏見城は廃止においやったのです。民間資本と活力による町づくり。所謂、初の「民活」が始まりました。。
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- 1616年(元和2年)大坂を10ヶ町に分割。
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- まず戦乱で中断の、道頓堀が完成し、市街は南に拡張。続き、西横堀川と木津川を結ぶ江戸堀が出来、下船場(現西区)が生れました。
- 三津寺村の低湿地帯は道頓堀川の開削土砂を島之内東部、下難波、西高津村に土盛し「島之内」「難波」「高津」が造成。その為、三津寺村は消滅しました。
- 更に、京町堀、海部堀等が次々完成、海に向かって市街が一気に開拓されます。
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- 1619年(元和5年)大坂の町は、ほぼ復興が終了し幕府の直轄地となる。
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- 大坂の町は、西国大名ににらみを利かす「幕府権力の象徴」と「経済首都」の二面性を持った町となる。
- 江戸期の町は、都市の基礎単位で、自治権を持った共同体。従って、伏見からの大移動は、単に人口を増やしたではなく、町人自治を可能にしたのです。
- 幕府は、城代や東西町奉行を置く一方、大幅な自治権を大坂に与えたのです。
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- 1634年(寛永11年)3代将軍徳川家光が来坂。
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- 民活の新生「大坂」に、11,000石にのぼる地子(固定資産税)の永久免除を約束。
- その代りに、大坂は『天下の台所』としての全国経済を運営する責任を負う様になったのです。
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●大坂 → 大阪へ |
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豊臣軍は徳川に敗れ、大坂城は「土に埋められ、土に返って」縁起が悪いと、明治になり大坂→「大阪」へと名記される様になりました。 |
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●心斎橋 |
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上記の通り、昔の大坂は低湿地帯で、海に近く、あちこちに大小の池や沼が点在していました。家を建てるにも盛り土をしなければならず、川を掘広げ、その土を利用して整地としたのです。こうして堀広げた長堀川に架けた橋名を岡田新三(心斎)の功績を残し「心斎橋」と名づけたのです。
-堺筋辺りを掘削した池田屋次郎兵衛の名を採り「長堀次郎兵衛町」
-四ツ橋辺りを担当した伊丹屋平右衛門の名を採り「長堀平右衛門町」
-海の辺りまで担当した富田屋四郎兵衛の名を採り「富田屋橋」が残されています。
心斎橋は「町橋」で、住民の負担で架けられました。特に、橋際の「橋掛町」の住民は高額な負担金が必要となりました。
八百八橋の大坂の町は、舟が行き来すると、杭は擦り減り細くなり腐る。すると橋は換え架えねばならない。「杭により身上を潰す」そこから、「くいだおれ」の語源が生れたのです。
当初の橋は、それ程頑丈ではなく、丸太を組合せた上に板を敷いた、お粗末な橋でした。しかし、商売が盛んになると人通りが多く、橋はグレードアップしていく。修復や改造等も商人負担、橋は厳重に管理され、少しでも橋を破損する恐れのある荷車等は、重量がかかると、引いて渡る事を禁止し、橋の袂で荷解きして手で運んだというからおもしろい。私財を投入して作った「私橋」は、都合で修復や架替が出来ず、そのまま放置する橋もあり、川を渡るにも遠回りさせられました。
橋が架っている通りは、いつも人通りが多く、商売も盛んで、特に、南北に架る心斎橋は繁盛橋で、船場 → 難波 → 住吉 への満筋として賑わいました。 |
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●心斎橋の工事 |
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1622年
(元和8年)
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長堀川に、心斎橋の木橋を架橋 (長さ35m 幅4m)。
岡田心斎 他の出費 (現在価格=5000万円)
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1724年
(享保9年)
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修復 工費=4貫819匁
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1736年
(元文4年)
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木橋の架直し 工費=16貫344匁
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1763年
(宝暦13年)
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修復 工費=16貫707匁
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1798年
(寛政10年)
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不明
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1802年
(享保2年)
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改造 工費=19貫965匁
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1824年
(文政4年)
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木橋の大修復 工費=13貫208匁
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1846年
(弘化3年)
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改造 工費=約19貫
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1867年
(慶応3年)
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木橋の上廻り改造 工費=84貫369匁
心斎橋の木橋の模型
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1873年
(明治6年)
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鉄製弓形トラス橋 工費=19,053円
昭和3年から「新千舟橋」として復活 (現、鶴見緑地公園内の篠掛橋)

浪花心斎鉄橋之図(明治六年)貞廣画
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1909年
(明治42年)
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11月完成 大阪初で唯一の二連石造アーチ橋 工費=72,234円

心斎橋(絵はがき)
アーチには成型された御影石が積まれ、側壁は横長の石が水平に重ねられた。中央の橋脚の上には、ギリシャ建築を思わせる柱頭飾りを持つ二本の石柱によって支えられており昼間は、川面に写る姿から眼鏡橋とも呼ばれ、大阪の二重橋として親しまれました。高欄の欄間には「四葉のクローバー飾」がズラリと組込まれており、夕方になると、脚立を肩にした男が現れ、有名な背高のガス燈に一灯づつ火入し、水面に映る光景に優雅さが感じられ、随分遅くまでガス灯は灯っていました。
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1945年
(昭和37年)
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長堀川が埋立られ、心斎橋が撤去されました

埋め立て工事中の心斎橋下(撮影は春木洋次氏)
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1947年
(昭和39年)
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長堀川に地下駐車場が誕生し、心斎橋は歩道橋となり復元改造されました。
工費=約4,000万円
長堀川は、船場の南端に位置し、この川に面した通を末吉橋通と呼んでいたのですが、長堀通の改造計画により、長堀通と改名されたのです。
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1996年
(平成8年)
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クリスタ長堀の地上橋に復元(長さ 約7.5m 幅12m)
現在の心斎橋
現在の心斎橋は、明治42年当時の心斎橋を縮小し分割され、モニュメント化したものでアーチの橋脚と欄干の一部が残されています。
地域の人達は、新心斎橋には川面を再現して欲しいと要望。しかし大阪市は、クリスタ長堀に、水は流さないと対立していました。地元の代表として交渉に当った私は「設計図では心斎橋の東西面に硝子の山並みの屋根が描かれている。この山頂から谷間の橋脚に向かって水を流す事は出来ないのか」「橋道には、毎日4万人の通行が見込まれ、煙草の吸殻、空缶、チラシや花紙等のゴミが捨てられ見苦しくなる」「一体、誰が回収にあたるのか?」「そこで、水を流し橋脚部でゴミを回収すべき」「大阪市は、平気で護美ダメを作る計画か」「これは大きな設計ミス」と注文を付ける。
その結果、『心斎橋に川面が再現、地上と地下からの両面より川面が見られる』と大阪の名所が出来上りました。
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●現在の心斎橋筋北の賑わい |
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当商店街は、大阪市の平日の通行量調査では、平成5年11月に約25,000人でしたが、平成11年5月には、約37,000人、現在では、お蔭様で約40,000人を越へる急成長を続けています。
平成15年2月に結成の当商店街振興組合のシンボルマークとして、心斎橋の欄干の「四葉のクローバー飾」を採用。
平成16年2月23日に完成の新舗装には、旧来の3商店街が連合した記念として、心斎橋の四葉のクローバーマークを3つ組合せたデザインにあしらい、消防隊の鼓笛隊の演奏により、南幼稚園の園児と共に賜やかに「通り初め」を開催しました。

新舗装
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●心斎橋筋の北の端は? |
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さて、現在の心斎橋筋は、長堀通〜戎橋迄ではないのか?と疑問を感じる方が多勢おられます。しかし、延宝6年(1678年)
『芦分舟』付録には「しゅんさい橋筋ハ、南ハゑびすばし、北はよどや橋一丁上」とあり、貞享4年(1687年)『大坂町絵図』・宝暦9年(1759年)の『摂州大坂画図』にも、土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「志んさいはし筋・心サイハシスヂ」とあります。
この資料の通り、1676年(延宝4年=元禄時代より15年前)から「心斎橋北詰の心斎橋筋の諸先輩達が、苦心をして順慶町通を右折し南下させた」のが、今の心斎橋筋の歴史を作り出したのです。
我々後輩達も、先人に負けないように商売繁盛に勢を出し頑張って行きたいものです。
さて心斎橋南詰の商店街は、179年後(1855年・安政2年=江戸時代後期)に繁栄が始まったにも関わらず、なぜ皆様は、心斎橋筋は、長堀通〜戎橋迄と解しているのでしょうか? 明治5年(1872年)3月に大阪の町名が変更された時に、長堀通以南に「心斎橋筋という新町名」が生れる様になったからなのです。
従って、心斎橋筋は、現在でも『北浜3丁目〜戎橋』までの2.5Kmという事になります。
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●エッ『心斎橋』に心斎橋なし?
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世界に知られている有名な橋『心斎橋』は当地に有りながら、大阪市は町名変更を許可して貰えないのは不思議です。
大阪の町は、昔から大阪城を中心に、どの町も1丁目からスタートしており、いずれの町も「南端と西端に境界線」が設定されています。町会地図を見ますと、当商店街の南端は、元ソニータワーの北溝に境界線があり、その手前に位置する『心斎橋』は当商店街に存在する事になります。
1、江戸時代の「心斎橋」は
南区史には、橋の中央から町名が別れており、橋の東側欄干は「長堀心斎町」。西側欄干は「長堀十丁目」に位置していました。「長堀心斎町」「長堀十丁目」の町名は1655年(明暦1年)に誕生しています。
2、明治5年〜昭和60年の「心斎橋」は
明治の町名変更で、東側欄干は「末吉橋通3丁目」西側欄干は「末吉橋通4丁目」と改称。そして、心斎橋南詰の「心斎橋筋商店街」は、町名が「心斎橋筋」と改称されてしまったのです。
3、昭和57年2月8日以降の「心斎橋」は
「南船場3丁目」に位置しています。長堀通地下の「心斎橋駅・北改札」(大阪市営地下鉄の御堂筋線と長堀鶴見緑地線)やクリスタ長堀地下街の町名は「南船場」となっています。
4、平成元年に中央区となり「心斎橋の町名」は
ドンドン遠くへ広がり、心斎橋筋を挟む東西に「東心斎橋」と「西心斎橋」の町名が生れてしまったのです。
我々の商店街は、昭和57年の町名変更当時、心斎橋は南北に架かっている橋なのに何故「東心斎橋」と「西心斎橋」の町名が生れ、肝心の「心斎橋がある町に心斎橋の名が付かないのか」と「北心斎橋の町名が必要」だと大阪市に陳情をしたのですが、居住者が少ない等の理由で、残念ながら名乗ることが出来なかったのです。
そこで、大阪市の市民局に御願いし、住居表示板の横に市費で (通称)「北心斎橋」のプレートを付けて頂いた上、南郵便局の局長に御願いし、今後共「北心斎橋」でも郵送して頂く様に御願いの上で諒承を得ております。
今後共、『心斎橋』に心斎橋の町名が名乗れる様に運動を薦めて行きたいと考えております。皆様のご理解とご協力の程を宜しく御願い致します。
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| ●しんきた商店街「創業330周年」 |
我々の商店街が「創業330周年」を迎えるに当り、延宝時代に切り開いてくれた先達に負けまいと、旧東区の「せんば心斎橋筋(旧、卸)商店街様」に呼びかけ「延宝330年祭」を開催しました。
何と、当時の誓文払いの浮世絵図の横断幕と幟が、長堀通〜本町通まで約3300尺(1km)間に騒然と飾られ、330時間のビックリセールと33時間の大道芸を賑やかに展開しました。
この(平成17年7月21〜23日)企画は、平成元年に旧南区と旧東区が合区以来、中央区の商店街としては初のイベントだと。テープカットをお願いした議員様達や中央区長様は、ぜひ来年以降もこの催事を続けて欲しいと大喜びでした。
今後共、大阪の繁栄と心斎橋の繁栄は切っても切れない関係にあり「中央区の心斎橋筋が、商いの原点を忘れず、切磋琢磨して商売繁盛」していかねばならないと思っております。是非、皆様のご贔屓とご鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。
 
しんきた商店街「創業330周年」イベントの模様
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資料提供 心斎橋筋北商店街振興組合 理事長 春木洋次
本文責は心斎橋筋北商店街振興組合にあります、全文もしくは一部を引用される場合は組合に確認してください。
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