大坂の町づくり

  1. 時代の末期、1497年(明応6年)蓮如上人が大坂石山坊を創建。この蓮如が書いた御文章に「大坂」の地名が始めて登場し、江戸時代を通じ大坂が使われています。
  2. この頃から、九州・中国の大名達が外国と貿易を行いました。
  3. 豊臣秀吉は過労死?と思われるくらい良く働きました。外交下手を露呈した朝鮮出兵の一方、内政では全国を駆け巡る傍ら、大坂城築城、兵農分離や検地等、中央集権体制作りに腐心して全国を統一し、大坂遷都構想まで温めていたのです。
  4. 1583年(天正11年)9月「大坂の町・第一期改造計画」
    a.大坂城の築城と城下町の検地に着手。40代半ばの働き盛りの秀吉は、史上類を見ない大都市を構想して、本丸、二の丸を中心に、城下町の北は大川、南は空堀通、東は猫間川(平野川)、西は東横堀川としたのです。
    b.ここに、大名や武家屋敷を造り、国元から町民を連れてこさせたのです。更に、平野や堺、伏見から町民を強制的に移し、人口20万人の城下町を建設したのです。
  5. 1598年(慶長11年「) 大坂の町・第二期改造計画」大坂城の普請と船場を大拡張。(~翌年3月)
    a.死期を悟ったのか?秀頼の為に城と町を囲む惣構の中に、堅固な要塞の三の丸を建設。
    b.そこにあった町屋敷や寺社(推計15,000戸)を新市街地に船場を造成して移転させた。当時の船場は現在の船場よりやや小さく、北は伏見町、南は博労町辺り、東は東横堀川、西は北御堂と南御堂辺りと考えられます。
    c.秀吉の存命中は、城内(内町)を大坂とし、城外の船場や天満は外町地域でした。
    d.死後に、この三地域を大坂に一本化「大坂の船場」「大坂の天満」と言われ「大坂三郷」と呼ばれるようになりました。
  6. 1615年(慶長20年「) 夏の陣」
    a.焦土と化した大坂の復興を担ったのが、徳川家康の孫の松平忠明大坂城主です。
    b.徳川進駐軍は豊臣の城の痕跡を完全に消す一方、城下町の建設に秀吉の計画を5年間引継ぎました。
    c.当時、畿内を治める幕府の拠点は伏見にありました。大坂の戦略的な重要性は解っていたのですが、廃墟ではどうしようもなかったのです。元、亀山城主の忠明は、大坂の復興整備に伏見城下の23町もの全町民を大移動させ、ついに伏見城は廃止においやったのです。民間資本と活力による町づくり。所謂、初の「民活」が始まりました。
  7. 1616年(元和2年)大坂を10ヶ町に分割。
    a.まず戦乱で中断の、道頓堀が完成し、市街は南に拡張。続き、西横堀川と木津川を結ぶ江戸堀が出来、下船場(現西区)が生れました。
    b.三津寺村の低湿地帯は道頓堀川の開削土砂を島之内東部、下難波、西高津村に土盛し「島之内」「難波」「高津」が造成。その為、三津寺村は消滅しました。
    c.更に、京町堀、海部堀等が次々完成、海に向かって市街が一気に開拓されます。
  8. 1619年(元和5年)大坂の町は、ほぼ復興が終了し幕府の直轄地となる。
    a.大坂の町は、西国大名ににらみを利かす「幕府権力の象徴」と「経済首都」の二面性を持った町となる。
    b.江戸期の町は、都市の基礎単位で、自治権を持った共同体。従って、伏見からの大移動は、単に人口を増やしたではなく、町人自治を可能にしたのです。
    c.幕府は、城代や東西町奉行を置く一方、大幅な自治権を大坂に与えたのです。
  9. 1634年(寛永11年)3代将軍徳川家光が来坂。
    a.民活の新生「大坂」に、11,000石にのぼる地子(固定資産税)の永久免除を約束。
    b.その代りに、大坂は『天下の台所』としての全国経済を運営する責任を負う様になったのです。