心斎橋通と心斎橋筋

    1. 心斎橋筋は、長堀通~戎橋迄ではないのか? 長堀通から北は新に心斎橋筋が出来たのでは?とお思いの方が多勢おられる様です。
    2. 何故か、江戸時代の長谷川貞信の錦絵(右上端)には「心斎橋通」
      とあり、歌川貞芳の錦絵「浪華御津八幡正遷(せん)宮心斎橋通江戸吉原大門口錺物(かざりもの)之図」と記されていて、当時は間違いなく心斎橋筋でなく心斎橋通だったのか?それでは、歴史を紐解いて見ましょう。
    3. 奈良時代(744年)から
      ご承知の通り、船場や島之内(北)は、奈良時代は安曇江(あずみえ)の海や湿地帯で、潮が満ち干きする干潟(ひがた)でした。
    4. 通と筋が出来る
      ①昔の京では、北に御所が、南に平安京の都(794 年)があり、牛車や馬、駕篭で通(かよ)う、
      通じるから、南北は広い幹道として「〇〇通り」と名付けます。
      一方、人が通る東西の狭い枝道には「1~9条」と名を付け街路名を区別したのです。
      (「条」を漢和辞典で調べると、音読みはジョウ、訓読みはエダ・スジ(筋)だと解ります。)
      ②奈良時代の大坂の御津・島之内(南)地区は既に陸地化しており、当時から存在する「御津八幡宮や三津寺さん」は今も残されています。
      ③古いこの土地の仕来たりは、京の都の街路名と同様に「幹道の『通り』は南北道、枝道の『筋』は東西道」と名付けられました。
      ④御津・島之内南地区は、お公家様が名付けた由緒ある東西の街路名として、今も「清水町筋・周防町筋・八幡筋・三津寺筋」と呼ばれ、その名残(なごり)が残されています。
      (右は、御堂筋にある東西道の清水町筋の表示板)
      ⑤一方、その来たに位置する、船場と島之内は、奈良時代には陸地がなく、安曇江(あずみえ)の海や湿地帯でした。
    5. 豊臣秀吉時代
      ①秀吉は、この湿地帯の船場と島之内北(長堀川~大宝寺通)を開発して島之内南の清水町筋周辺の陸地部分と接合して、街路名となったのは天正11 年(1584 年)頃の事です。
      ②秀吉は、大坂城へ行く街路として「通り=東西の広い幹道」とし「筋=南北の狭い枝道」
      と名付けた為に、大坂の街路は京の町とは逆方向の街路名となったのです。
      (成上り者の秀吉は、公家様の名付けた街路名まで手を付けられなかったと考えられます。)
      ③この説明でお判りの通り、秀吉時代により造成された「心斎橋筋は、北浜3丁目~長堀川の心斎橋~大宝寺町通り」間で、奈良時代からの古い島之内(南)地区は「心斎橋通」だと区分されていました。
    6. 江戸時代には
      ①初期の、延宝6 年(1678)『芦分舟』付録に「しゅんさい橋筋ハ、南ハゑびすばし、北はよどや橋一丁上」とあり、貞享4 年(1687)の『大坂町絵図』には土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「志んさいはし筋」とあります。
      ②中期の、宝暦9年(1759)の『摂州大坂画図』にも「心サイハシスヂ」と銘記されています。
      ③末期の、弘化3年(1846)「浪華買物独案内」や安政年間(1854~60)の「浪華百景」の錦絵他には「心斎橋通」とあり、江戸時代には心斎橋通と心斎橋筋が混載されていた様です。
    7. 明治からの心斎橋筋は
      なぜか皆様は、心斎橋筋は長堀通~戎橋ではないのかと、間違っておられるのでしょうか?実は、明治5年(1872)3月に町名が変更され、長堀通から南詰の5つの町(錺屋町(かざりや)、
      木挽(こびき)北之町、木挽中之町、木挽南の町、菊屋町)が合併して「町名の心斎橋筋」が生まれ、地図上に記載される様になり、新しい心斎橋筋が出来たのです。
    8. 今の地図上の、心斎橋筋はなんと?
      現在の「町名の心斎橋筋」は、この事実に照らして見ますと、大丸本館玄関前から北側の32%が「心斎橋筋」で、南側の68%が「心斎橋通」という事になり、町名の心斎橋筋は実質1/3以下しかなく大半が「心斎橋通」と云う事になります。

◎これでは「心斎橋」が可愛そう!

この和風アーケードを造り、ここが本来の『心斎橋』ですよと、皆様に訴え続けていきたいと思います。今後共、心斎橋筋北商店街をご愛顧頂きます様よろしくお願いします。

平成27年4月吉日
心斎橋筋北商店街振興組合

心斎橋通の初売之景
南北が御堂筋東西が清水町筋